<私生子>差別をなくす会

婚外子差別ほか、戸籍がつくる差別について考える会です。

May 2015

帝国日本おける戸籍は、こちらのカテゴリーから。昇順に読めます。
mixiチェック

 日本の戸籍制度が、朝鮮、台湾あるいは樺太などの旧植民地で、どう運営されていたのか? 学習会の講演録を掲載します。

 近代日本の起こした戦争や植民地支配はどういったものであったのか? 近隣のアジアの人々と向かい合うとき、事実から目を背け、歴史観の問題を避けて通ることは決して許されません。戸籍制度がどういった役割を演じたのか? 戸籍の問題点を浮き彫りにする重要な側面でもあると考えます。



<遠藤
正敬 氏 講演>
                              2012.11/23

 御紹介にあずかりました。私の所属を説明させていただきますと、早稲田大学の大学院で政治学を専攻していまして。政治学と聞くと、やっぱり何かあまり実践的でない学問という印象をお持ちかと、実際に大半の方は政治制度、国会がどうとか政党がどうとかで、選挙制度がどうとか政治思想とかそういった研究が多いんですけど、私の場合は国家と個人の権力関係ということを政治学の問題として考えるときに、やっぱり戸籍と国籍の問題というのが常々問題意識の中にあって、それでこれを政治学の問題として対象にしてみようということで研究してまいりました。特に戸籍の研究者というのはそれなりに今までいたんですけども。例えば皆さん書店に行かれた場合に「戸籍法」という教科書を殆ど見たことがないと思うんですね。あるにしても、ちゃんと学者が書いた「戸籍法」という教科書が有斐閣から初版が1957年で、やっと第三版で1986年とかなんですね。ずうっとそのままプロパーな考察っていうのは殆ど止まっている感じです。ましてやこういう外国人と戸籍の問題とか、植民地と戸籍の問題を歴史的に考えるとか、そういう研究は殆どやられていなかったんじゃないかなあと思うんですね。


 私の心の師匠と言うべき田中宏さんが在日外国人の研究でお馴染みですけど、あの方がやっぱり先駆者じゃないかなと思うんですね。あの方は指紋押捺から中国人強制連行とかにいたるまで、いろんなことをやられているんですけども、その中でも特に戸籍の問題、国籍の問題というものを考えさせてくれました。そこでもうちょっと綿密に研究してみようということで、私がやり出したわけなんですけどもね。今現在、私は早稲田大学の台湾研究所というところで、招聘研究員という肩書きですが、一切お金は貰っていない名前だけの研究員で、あとは実質フリーターです。


 本題に入りますと、今ちょうど総選挙が一月後に控えて、お祭りムードになっていますけども。今年2012年というのは、(レジュメ:クリックして下さい)始めにも出しました様に、節目の年でありまして。もう言うまでもなく、サンフランシスコ平和条約が発効したのが、今から60年前の4月28日です。その日というのは日本が主権を回復して、占領軍から独立しためでたい日という、そういう受け止め方が大きいと思うんですけども、ここにいらっしゃる方は皆さん御存知だと思うんですけども、在日朝鮮人、台湾人という人々が一斉に日本国籍から外国人にされてしまった日なんです。それから60年経って、そのことも殆どマスコミはあまり取り上げていなかったんですけども、今、在日韓国人2世のキムミョンガンさんという方が「そのとき自分が日本国籍を失ったというのはおかしい、日本政府の執った措置は間違っている」ということで、日本国籍確認訴訟というものを起こしています。それが一審、二審と敗訴して、現在、最高裁に上告しております。私もほんのちょびっとだけその支援運動をお手伝いさせて貰っておりますが、この問題は本当に早急に片を付けるというのも難しいんですけども、まずは、やっぱり根っこを掘り起こすことから始めなければいけないんじゃないかと。


 また、今年の7月に外国人登録法が廃止されました。後に述べます様に、外国人はこれまで住民基本台帳に載らなかったんだけども、7月からは外国人も住民基本台帳に載るということになって、日本の入管法制が大きな転換点を迎えることになりました。ただそこで、改めて大日本帝国の時代から今日まで、旧植民地の出身者の人達について、国籍と戸籍がどう扱われてきたか、そして日本人はどのように作り出されて来たのかという問題を、ざっとおさらいしてみたいと思います。ま何とか1時間くらいで終えるように、多少端折ったりもしますけども、あとは皆さん個人個人で戸籍の問題と国籍の問題とか御自分の体験で、こういうことがあった、こういうことも知っている、そういうこともおありだと思うんで、逆に私に教えていただきたいなと思っております。


 まず最初に、日本の植民地統治における国籍問題というところから話を始めます。植民地の人達というのは、意外とこれ誤解している人が多いんですけども、「朝鮮人・台湾人て、日本の植民地支配の時代、日本国籍じゃなかったんでしょ」と思っている人が結構いるんですね。大学教授レベルでも、そういうこと言う人がいるんですね。その辺はもう、はっきり言いますと日本国籍だったんですね。ただ、どの様に国籍が決まったかっていうのは、結構植民地によって差がありまして、そこからまず話を始めます。


 沖縄・北海道はちょっと置いておきまして、植民地ということで台湾を初めに考えますと、日清戦争で日本が清に勝利して、清国から台湾を獲得したのが1895年であります。その10年後には、日露戦争の勝利の結果、ポーツマス条約で日本は南樺太をロシアから獲得、これは元々は千島樺太交換条約というのが1875年で、あの時に樺太を向こうに渡したので「回復」と言ってもいいんですけども、まあ一応「獲得」としておきますね。その5年後には御存知の韓国併合がありました。今日はこの3つ-台湾、朝鮮、樺太-を中心に話を進めていきます。


 これらの植民地を獲得したときに、そこに住んでいる人、元々朝鮮・台湾・樺太に本籍を持つ人と言っていいんでしょうかね、そういう人達の国籍はどうしましょうかというときに、当時の国際法的な慣例では、基本的に領土変更に関する当事国間の条約、大体戦争が終わった後に平和条約なんかを結びますけども、そういうところで、領土住民の国籍についてはこのように定める、という条文がちゃんとあって、しかもそこには、慣例的に国籍を選択させるという規定が設けられてました。これは、欧米について帝国主義という括り方をしてしまいますけども、やっぱりあの近代自由主義という思想が脈々と流れてますから、国籍というものを個人の自由であるということで、それはいかに戦後処理であろうとも、個人の自由意志を尊重しようということで選択権を認めたものと考えられます。そうした流れを日本も汲んでおりまして、例えば1895年5月の下関条約の第5条第1項には、条約締結から2年以内に現地にある財産を処分して台湾を退去する者は退去してよいと、そうじゃない者は「日本国臣民ト見做スコトアルヘシ」という条文があります。「見做スコトアルヘシ」という、なんか勿体つけているんですけども、要するにこの辺は日本政府の裁量なんですね。日本国籍を全ての台湾住民に与えるというわけではなくて、日本国籍を与えてもいいとみなした人間、たとえば反日運動をしていないとか、そういう条件で日本国籍を与えますよ、ということ。同じ様に国籍選択に関する規定は、樺太を獲得したポーツマス条約にもありました。しかし韓国に関しては、こうした規定はありませんでして、韓国併合条約には第1条に「韓国皇帝陛下ハ韓国全土ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス」とあり、法律の文言に「完全かつ永久に」とか入ってしまうんですけども、本当にこう書いてたんですね。将来、絶対失うことはないという前提だったんでしょうけども。これは、つまり国家そのものを併合したということで、完全にそこにある全ての朝鮮人が無条件に日本の管轄権の下に置かれたということで、全て日本臣民になったのだという解釈になっております。以上のように、結論的には全て植民地の人達は、選択の結果であれ強制であれ、国籍は日本となったのです。


 もう一つの問題としては、国籍法というのが日本にありまして。まあ世界どこにもありますけども。この国籍法を植民地に施行するかどうかという問題が生じます。というのは、例えば台湾にしろ朝鮮にしろ、そこに住む外国人なんかがいて、じゃあ日本に帰化したいというときに、国籍法がそこに適用されていないと日本に帰化出来ないとか。或いは逆に台湾人とか樺太のアイヌなんかが日本国籍をもうやめたい、抜けたいと言ったときに、国籍法に基づいて日本の国籍を抜けるという、そういういろんな手続きのために国籍法を植民地に施行する必要が出て来る。日本の国籍法というのは出来上がるのが意外と遅れまして、明治32年(1899年)の3月に公布されまして、父系血統主義でありました。つまり、父親が日本人であれば、その子どもは日本人となるという、そういう主義でした。


 この国籍法が台湾には、台湾獲得から4年後ですね、わりと早い時期、1899年6月に施行されまして、樺太には1923年4月に施行されます。しかしまた例外が朝鮮でありまして、朝鮮のみ国籍法は施行されませんでした。国籍法が施行されないと、どうなるかというと、さっきも言った様に、例えば朝鮮人は日本の国籍を離脱することが出来なくなるという問題があります。何でこういうことをやったのかというと、これは諸説あるんですが、私の本にも書いたんですけども、当時朝鮮人というのは、朝鮮外に移住する人達が19世紀後半から増えていました。中国の今の吉林省の延辺とかに朝鮮人自治州とかありますね、あの辺で当時は間島という地名でしたけども、そこに集中していたんですね。1909年に日本と清の間で間島協約というのを結びまして、そこで間島に住む朝鮮人は清国の法権に服する代わりに、そこで土地の所有権を認めるという規定がありまして、ある意味、朝鮮人にはそういう特権が与えられていたんですね。そこから考えると、国籍法を朝鮮で施行しなかった理由というのは、結構すんなり得心がいくのです。施行しなかった理由としては二つ考えられます。一つは、やっぱり領域外-朝鮮外に出て行った朝鮮人が何をやるかというと、やっぱり抗日運動、特に満州に行って反日パルチザンとか、そういうことを形成する朝鮮人が多く出て来ると。そういうときに警察権を行使するときに、やっぱり中国、満州なんかは日本の領域外だったので、いわば外国になります。でも外国で日本の警察が警察権を行使して逮捕するとか、そういうときには、逮捕する相手が日本国籍であるという前提が必要なので、朝鮮人が日本国籍である必要があったわけですね。そのために国籍離脱を阻止したかったという、それが一つであって。

 もう一つは、今言った間島に朝鮮人が土地の所有権などを持っていると。これには日露戦争のときから満州をずっと日本の生命線として目を付けていたので、もうとにかく満州における権益を拡張していくためには、朝鮮人がそこに土地の所有権を持っている、どんどん朝鮮人の権益を増やしていくということは、それは即ち日本の権益に繋がるということで、彼等が帰化したりして日本国籍を離脱すると、彼等を日本人として扱えなくなるので、国籍法を施行せずに日本国籍を離脱させないようにした、ということが言えると思います。つまり朝鮮人に対する管轄権を保持するためという理由だったと考えられます。これについては、私も本で書いたんですけども。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

mixiチェック

今言ったのは国籍の問題ですけども、ここでまた次の問題、戸籍の問題が関わって来ます。(レジュメの)“戸籍と「帝国臣民」の峻別-民族の境界線となった戸籍”という項ですが、そもそも戸籍とは何ぞやと言うと、皆さん御存知だと思いますが、個人の出生や死亡や婚姻や養子縁組などの身分関係を、個人単位ではなくて家ごとに登録するというものですよね。現在では家というものではなくて、夫婦と未婚の子どもというのを一つの単位として登録しておりますが。家族単位であるということでは同じで、当時の方がもっと家族という概念が更に茫洋としていたと思うんですが。

 

このような戸籍というのは日本にしかない制度でありまして、欧米なんかでは個人単位の登録が基本ですよね。元々中世までのキリスト教会が絶大な力を持っているときには、教会が個人を出生、婚姻とか、死亡とか、それを全部神の恩寵としてとらえて、それを教会の登録簿に洗礼を受けさせて登録するとか、そういう形だったので、個人単位だったのが今日まで行き着いていると言われております。中国も今、戸籍があると、よく一般に言われますけども、中国の戸籍はだいぶ日本と違いまして、これは一種の居住登録で、農村に居住していれば農村の戸籍、都市に居住していれば都市の戸籍という感じで、完全に戸籍への登録が個人の身分になっているという、そんな感じですよね。

 

日本の戸籍は古代からありましたけども、江戸時代にはよく時代劇なんかにも出て来ますけども、“人別改”とかありますね。“宗門改”とも。あれもまあ戸籍と言えないこともないですし、研究者は戸籍と呼んでいる人もいますけども。あれも一種の居住登録ですね、人口調査みたいなもので。あれをちゃんと身分登録としてきっちり制度化しましょうねというのが、やっぱり明治になってからです。富国強兵のときに徴兵とか徴税とかそういう人的な資源を動員するには、ちゃんと個人の居住地なり家族関係を把握する必要があるということで、戸籍が出来るんですけども。ただ最初の壬申戸籍というのは、今から見ると、やや変わってまして、このときは日本に居住するものを臣民として登録したんですね。これが何で臣民かと言うと、要するに天皇は戸籍にはじめから載らないわけで、つまり戸籍に載る者は全て天皇の臣民として、身分に関係なく、士族だろうが、華族だろうが、庶民だろうが、戸籍に登録されると。つまり戸籍は臣民簿として始まったわけです。これが原日本人ということになると思います。

 

それが、きちんとした国会によって制定された法律となるのが1898年のことで、ここに壬申戸籍が、さっき言った居住地に登録したものが、この戸籍法ではこの様に変わりまして、170条に「戸籍ハ戸籍吏ノ管轄地内ニ本籍ヲ定メタル者ニ付キ、之ヲ作成ス」と。本籍を持つ場所に戸籍が作られると、更には「日本ノ国籍ヲ有セザル者ハ本籍ヲ定メルコトヲ得ズ」ということで、つまり戸籍に搭載される者は日本国籍を有する者に限られると、外国人は戸籍に載りませんよと、初めてここで、はっきりと条文に書かれることになります。同じ時期に明治民法が出来まして、戸主を中心とした親族団体としての家というものが確立されますが、戸籍はその家を媒介として、血統に基づいて天皇の万世一系が称揚され、国体のイデオロギーと結びついていく。結局、日本の天皇制の考え方っていろいろあると思いますけども、国体というものが、やっぱり家族国家観でありまして、一つの家を家長が治めて、その家を全部束ねるのが現人神である天皇であるという、天皇が全て日本という国-国家というのは国の家と書きますが-国家の家長である天皇が全ての日本臣民の長である、そういう国体の思想が、戸籍に繋がるんではないかと思います。

 

この辺も長々と話してると時間が経ってしまいますので、次に戸籍と植民地の関係に行きますと、戸籍が民族の帰属を示す標識となるということです。どういうことかと申しますと、帝国の領土において統一的な戸籍は制定されませんでした。つまり植民地ごとに別々に戸籍を作るという、そういうやり方でした。

朝鮮には1922年12月に朝鮮戸籍令というのが公布されまして、その前から朝鮮には民籍というものがあったんですけども、それを日本の戸籍の内容に近いものに改めるべく、ここで朝鮮戸籍令というものが出来ました。これは日本の戸籍と、ほぼ一致した様な内容でありました。

 

樺太はやや複雑でして、いったん1908年に「土人戸口規則」というのが施行されまして、これが「戸口規則」なんで、これも厳密に言えば戸口調査というか警察の人口調査みたいなものなんですが、これを樺太の戸籍にしましょうねということで落ち着いた。ただ、樺太はもともと日本人、つまり生まれながらの日本人が占める割合が圧倒的に多かったので、樺太に住む日本人を管理する意味で、1924年に樺太に内地の戸籍法を施行しましょうということになります。アイヌは最初はこの戸籍法で適用外だったんですけども、アイヌもかれこれ室町時代くらいからですかね、江戸時代と通じて、日本の支配下に置かれて来て日本人と同化しただろうということで、1932年1月に戸籍法の適用を受けます。やはり日本に同化しているかどうかという基準で、日本の戸籍法を適用するという、そういう考えだったので、アイヌ以外の先住民、ニブヒとかオロッコとかギリヤークとか5つくらいの先住民が居たんですけども、この人達は到底日本と同じ様に扱えないということで、「土人戸口規則」の適用を受けまして、この人達は「樺太土人」と法令上は総称されました。(レジュメの)3頁に表がありますけども、外地における人口の内訳ということで、1940年の国勢調査のときのものなんですけども、樺太は見てわかるように比率としては95.1%-もちろん朝鮮に比べたら少ないですけども-が内地人つまり生まれながらの日本人でありましたので、こういうところから見ても、樺太が特殊なところだったと、わかると思います。

 

もう一度(レジュメの)2頁に戻っていただきますと、台湾についてですが、これはまたかなり原住民とかいろいろ多く住んでおりまして、即座に日本と同化することは難しかったので、1905年12月に「戸口規則」というのを施行しまして、ここで台湾住民の戸口調査簿というものが編制されます。これは戸口調査という様に警察機関がやる治安的な意味の強いものなんですけども。これが1932年11月に、細かいことを言いますと、この頃になるとさすがに日本人と台湾人の間で結婚したり養子縁組したりとか、そういう人達も増えて来るのですが、そういうときに、台湾の戸籍は日本の戸籍とは全然内容が違うものだった。例えば日本人が台湾人の妻になって台湾の家に入ったなんていうときにも、台湾の戸籍には載らなかったりとか、あまりにも内容が違うので、日本内地の法務局なんかも扱いに困ったりとか、そういうこともあったんで、ちゃんとした戸籍を作りましょうね台湾にも、ということで、1932年11月にさっきの戸口調査簿を少し内容を整備して「台湾戸籍」というものに仕立てました。

 

この様にばらばらに戸籍を植民地ごとに作って、どういうことが起こったかというと、本籍というのは皆さん御存知かと思いますけども、結局戸籍の所在地で、言い換えると家の所在地で、本籍が内地にあるか朝鮮にあるか台湾にあるか、まあ樺太もそうですけども、どこにあるかで「日本人」「朝鮮人」「台湾人」という表示になります。「」を付けたのはどうしてかと言うと、結局、血統はあまり関係なくて、例えば朝鮮の家に入ったり台湾の家に入ったりすることで戸籍が民族の表示になってしまう、そういうことなんです。

 

更に本籍が内地と外地、つまり外地というのは日本の領土の中で異法領域といって慣習の違いとかで即座に日本の憲法をはじめ日本の法令を適用できない場所として、台湾、朝鮮、樺太は扱われてまして、そこで本籍が内地と外地のどちらにあるかで、内地人、外地人という区別も出来ました。「へたくそな図を参照」とありますが、最近はパソコンでうまく表を作ったりしている人が多いですが、私は不器用でこんな様な図しか作れないんですけども。まとめますと、「日本臣民の区分」という3頁のところなんですけども、戸籍を基準としてこういう境界が出来ます。つまり内地人といった場合には日本人と樺太のアイヌで、これは内地戸籍に帰属していると。外地人といった場合には台湾人、朝鮮人とさっき言ったアイヌ以外の先住民である「樺太土人」ということになります。国内法上の相違としては、後で説明しますけども、兵役義務があるかないかとか、あとは日本人の官僚とかが例えば外地に務める場合は、「在勤加俸」といってちょっと上乗せされるんですね給料が。内地に務めるよりも外地-朝鮮総督府とか台湾総督府なんか-に勤めていると少しお金が良くなるという、そういう違いはありまして。

mixiチェック

また(レジュメの)2頁に戻って下さい。今の様な、戸籍による、もっと言えば本籍による境界というのは変えられませんでして、つまり各地域の間で本籍そのものを移動することは禁止されておりました。これはやはり民族の識別と分断ということで、本籍を朝鮮から内地に変えたりとか或いは朝鮮から台湾に変えたりというと、朝鮮人は内地人つまり日本人になったりとか、逆に台湾人が朝鮮人になったりとか、そういうことが出来ちゃう訳ですね、本籍を変えることによって。但し、外地人と内地人の間で、或いは朝鮮人と台湾人という外地人同士で、つまりそういう戸籍法が異なる地域の間で、まあ当然やはり結婚する人もいれば養子縁組とか認知したりとか、或いは逆に離婚したり-朝鮮人と結婚したのが離婚したり-とかそういうことも出て来ますよね。そういうときに、個人の戸籍上の変動、つまり結婚したら家を出るわけですし、認知されたらその家に入るわけで、そういうのが例えば地域をまたいだ戸籍の間で生じた場合どうなるかといったときに、それもちゃんと法律上整備しないと面倒になるというんで、「共通法」という法律が1917年に制定されました。その第3条第1項に、「一ノ地域ノ法令ニ依リ其ノ他地域ノ家ニ入ル者ハ他ノ地域ノ家ヲ去ル」という様に書いてあります。「家」というのは本籍と言い換えてもいいと思うんですが、例えば内地人の女が朝鮮人の男と結婚した場合には、内地の家を出て朝鮮の家に入るということになります。つまりどういうことかと言うと、さっき言った様に本籍そのものは絶対移動しちゃいけないと、だけど個人が婚姻なり縁組なりで家から家に移動するのはいいという、つまり家の所在地はあくまで不動であって、人が地域をまたいで家の出入りをする場合のみ、それはやっていいよと。その場合に結果としては民族簿に変動が生じることになります。だからやはり、とことん個人主義というものは、ここでは抑圧されてまして、あくまでも家は不動であって個人が家に従属するという原理であるという。しかも血統というのは、ここでは完全にフィクションと化していますね。つまり、生まれながらの朝鮮人じゃない人が朝鮮の家に入ったら朝鮮人になってしまうということです。だから生来の日本人でも朝鮮戸籍に登録された者は朝鮮人となるという、こういう例はいくらでもありました。

 

あと満州国については、軽く御説明しておきますと、満州国は日本が独立した主権国家として作ったものなのですが、そこで当然日本人、朝鮮人もそこに移民して行くんですけども。そこには他にもいわゆる「五族協和」なんて言いまして、漢族、満州族、モンゴル人、日本人、朝鮮人が五族と言われておりましたけども、満州国では国籍法も戸籍法も制定出来ませんでした。これはいろんな理由がありますけども、やはり最大の理由は、多様な民族があるために、これは統一的に満州国の国民として、もちろん国民という意識を植え付けることも出来ないし、法の手続き上も難しかったということで、国籍法も戸籍法も出来ませんでした。あとやはり日本人の国籍をどうするかという問題もあった。日本人は、はたして満州国の国籍に変えてしまっていいのかという、そこにも相当悩みがありまして、この二つは出来なかったと。代わりに1940年に「暫行民籍法」というのが出来るんですけども、これは本籍や出生地や居住地、更には種族なんかを登録する民籍というものを編製しました。日本人もここに登録されたんですけども、ただ一貫して変わらなかったのは、日本人も朝鮮人もさっき言いました様に、国籍上は日本なので、どっちも日本国籍を、満州国に居ようとも保持しておりました。戸籍も日本人だったら内地戸籍、朝鮮人だったら朝鮮戸籍がそのまま適用されておりました。なので今、と言うよりだいぶ昔から、中国残留孤児、残留婦人といった人達が自分の肉親探しのために日本に来てますけども、あれも結局、本当に戸籍をよーく探せば、当然日本人は日本の戸籍に載っていた筈なんですが、やはり戦乱で焼けちゃったりとかいろんな形で紛失したために、ああいった苦労をされているみたいですけども。

 

それから、治安の意味でも満州は匪賊とか多かったので、あと苦力(クーリー)という中国人労働者も居たんで、そういうのを識別するのには戸籍がないと不便、じゃあどうしようかというんで指紋で管理したりとか。あとは法律として「国民手帳法」というのが出来まして、これも手帳に指紋を押させるというものでしたけども、不完全な形で終わりました。

 

以上の様に、戸籍によって同じ日本国籍の中で民族が区分されたんですけども、戸籍が違うと、どういう風に国籍の機能が変わってくるか。国籍の機能ってどういうことかと言うと、国籍を持っていれば必ず与えられる権利と義務、というのは、皆さん思い浮かべるのは参政権と兵役だと思うんですね。これはまあ今の日本でも外国人の参政権、民主党がマニュフェストに書いてましたけども、結局反対派の意見というのは、いかに日本に何年住んでいようとも国籍を日本に変えない限りは参政権は駄目だと、国民主権だから国籍と絶対セットですよって言いますけども。日本の植民地の時代では、戸籍法の、つまり内地の戸籍が適用されるかどうかが、実質的な要件となっておりました。それが一番わかりやすいのは兵役でありまして、内地人服役の原則というのが採られておりました。兵役法は1927年に法律として出来たんですけども、国民兵役の対象を「戸籍法ノ適用ヲ受クル者」という、つまり内地人に限定しておりました。これは何故なんでしょう?まあこれは、国家の危急存亡に際して銃を取って闘う者というのは、やはり生来の日本人しか国への確固たる忠誠心を期待し得なかったのだろうということで、国籍は同じだけども朝鮮人や台湾人は兵役から除外するということにしておりました。ただ、太平洋戦争末期になって総力戦体制になると、やはりそうも言ってられないんで、兵役法からこの戸籍条項を外しちゃうんですね。ここでやり方がすごく巧みなのは、普通ここで条文に「戸籍法ノ適用ヲ受クル者」しか兵役を適用しないよと書いてあれば、じゃあ朝鮮人にも台湾人にも戸籍法を適用すればいいんでしょというのが一般人の発想かも知れませんが、日本の官僚というのはその辺はすごく頭の切れる-と誉めて良いかわからないですが-「戸籍法ノ適用ヲ受クル者」これを外しちゃえば、朝鮮人台湾人に日本人と同じ戸籍を適用しなくても兵役は適用出来るという、そういうやり方を採ったんですね。朝鮮人や台湾人はかなり末期ですけども、1943年~1944年に兵役義務を賦課されました。

 

参政権については、衆議院議員選挙法には、今言った「戸籍法ノ適用ヲ受クル者」という文言はありませんが、ただこれは外地には施行されなかったんです。ということになると、選挙権というのは居住地によって発生するものですから、植民地の人間でも内地に住んでいれば、別に本籍を移さなくとも内地に住所がちゃんとあれば選挙権を行使出来たのだけども、結局外地に圧倒的に住んでいる人が多かったわけですから、外地においては選挙権は、参政権は行使できないですよね。さっきも言った様に、本籍を外地から内地に移すことが出来ないということは、やはり本籍っていかに住所と離れているものとは言っても、そこに定住しようと思えば、やはり本籍を外地から内地へ移した方がいろいろと、家族のいろんな手続きとかの面倒が無くなりますから、いいわけですよね。だけど外地から内地へ本籍を移すことが出来ないということは、結局まあ朝鮮人や台湾人が内地に定住するということがやはり難しくなるわけですね。そうすると当然、内地で参政権を行使する人間も、ほんの僅かしかいなかったということになる。これがさっきも言った様に、兵役が戦争末期に適用されたので、じゃ兵役だけやらして参政権与えないのは、ちょっとひどいでしょうという話になって、かなりぎりぎりですけど1945年4月に衆議院議員選挙法が改正されて、朝鮮台湾に本籍を持っている者の参政権は認められましたけども。ただし納税要件は付いていました。なんで納税要件・・・とっくに日本人の場合も1925年に普通選挙法というものが出来ているんですけども、まあこれはひとえに朝鮮人や台湾人はまだ日本人から見れば「民度が低い」からという理由でありました。法律上は参政権が認められたんですけども、結局総選挙が行われないまま終戦になりまして、これが後で述べる様に、1945年12月には朝鮮人台湾人の参政権は停止されてしまいます。

 

以上に見た様に戸籍の差別というのは、よく私も聞かれるんですけども、欧米の植民地ではどうだったのと、同じ様なことをやっていなかったのと聞かれるんですけども、私も時間に限りがあるのであまり細かく調べることは出来ないんですけども、まあ一通り見た限りでは、こういうことはやったんですね、植民地の人間に国籍を与えるけど、市民権については差別することがあったという。例えばアメリカなんかでは、フィリピンが植民地であった時代には、フィリピン人はアメリカ国籍を与えるけども公民権はなかったとか。そういう様なレベルでの差別はありました。

 

ただ、日本みたいに本当に身分登録を全く別にして民族ごとに差別するという方が特殊で、これが強いて言えば似ていたのはナチスドイツじゃないかなと思います。ナチスドイツはユダヤ人を徹底的に識別することをやり、劣等人種として差別してましたから、例えばその家族簿というのがヒトラー政権で出来るんですけども、ここでもアーリア人の血統であることを記載させられたんですね。そこで一目でユダヤ人かそうでないかが判るようになっておりました。しかもユダヤ人の場合はドイツ国民だけど公民ではないという扱い、つまり公民ではないということは公民権つまり参政権や公務就任権などがないという。ユダヤ人はアーリア人との結婚は禁止とか、そういうことが定められておりました。

 

ただやっぱり日本と違うのは、ナチスの法律では、はっきりユダヤ人と書くんですね。ユダヤ人はこれをこうすることが出来ないという。日本の場合は、さっきも言った様に「戸籍法の適用を受くる者」という言い方なんですね。なんでそういう言い方をしたかというと、官僚なんかが当時書いたものなんかを読むと、やっぱり朝鮮人台湾人て明記しちゃうとそれは露骨に差別なんで、明記しないでいわゆる「戸籍法の適用を受くる」云々という、そういう言い方にしたと。その辺が結構官僚の巧妙な表現力ではないかなと、まあちょっと感心すらしてしまいます。

mixiチェック

あとは(レジュメの)3つめの「皇民化政策における急所としての戸籍問題」というところです。今言った様な戸籍による差別も、ずーっとこのままでいいの?という疑問が日本政府の中で出て来ている。というのはやっぱり、よく日本の植民地政策は同化主義だったという一般的な解釈が見られると思うんですけども、一応日本政府の植民地統治における基本方針というのは、内地延長主義という、これは原敬内閣の時に、ほぼこれが決まったんですけども、つまりすぐさま内地と同じ法律なり文化なりに変えてしまうんではなくて、徐々に徐々に同化していくという主義でありました。だから、もしかしたら植民地があと十年、二十年と、もっと長く続いたら、最終的には戸籍を一緒にしたのかどうかはわかりませんけども。

 

ただ総力戦体制になると、やっぱりみんなが一つの愛国心を持って国家のために起ち上がるという、まあそういうスローガンがどんどん出て来ると、皇民化政策というのが行われまして。しかも総動員体制ですから、国民徴用令とかそういうものも1939年に出来たんです。植民地には最初いわば適用はしないようにしようと見合わせたんですが、もう1944年にもなるとそうも言っていられなくなって、植民地にも適用されました。さっきも言った様に、兵役も適用されます。この期に及ぶと、植民地出身者も戦争動員の上で内地人と差別が無くなるわけですね。

 

更に御存知の様に、結構日本というのはスローガンを作るのに非常に長けてまして、朝鮮に関しては「内鮮一体」とか、台湾については「内台一序」なんていうスローガンを作って、つまり全て同じ帝国臣民ですよ、天皇の臣民ですよということで、まあその実現として、有名な「創氏改名」というのを1940年2月に始めますけども。これは朝鮮人に日本式の氏を名乗らせるものでありますけども。まあこれについても、朝鮮人からは反対意見がありまして。氏を日本人と同じにしても、朝鮮人は内地に本籍を置くことが出来ないんでしょ、それは結局差別でしょと、ずーっと本籍を分けているのだから、結局は差別したいんでしょ、という反対意見が出るんです。それはどの程度響いたかはわかりませんけども。

 

あとはやっぱり兵役を、さっき言った様に朝鮮人台湾人にも賦課したので、代償として、まあ少し植民地の人間の処遇も改善しようじゃないかということが、1944年の小磯國昭内閣の時から政府の閣議決定で決まるんですね。そういう流れの中で、植民地の人たちも内地へ転籍させるのを認めようじゃないかという、つまりそうすることによって朝鮮人台湾人も日本人になれるという、そういう法案が朝鮮総督府や内務省において検討されます。かなり具体的な法案が出来るんですけども。ただ内務省が1944年11月に「朝鮮人及台湾人ノ移籍ニ関スル諸問題」という文書、これは内部文書がありまして、これがまた非常に奥が深いんですけども。移籍というのはつまり、ここで言うと本籍を内地に移すという意味で-よく○○選手がジャイアンツに移籍したとかそっちの移籍がイメージとしてはありますが-この場合の移籍は、本籍を移すという意味で使っております。それで「移籍ハ戸籍ニ関スル単純ナル手続上ノ問題トハ考ヘ難ク、民族ノ混淆、同化乃至純粋保持等ニ関スル根本問題ヲ包蔵シ、朝鮮人及台湾人ニ対スル民族政策並ニ日本民族ノ将来ニ関スル長久ノ方策ノ根本ニ関スルモノナリ」と、そんな大袈裟なものかなという気もしますが、ここまで戸籍の問題は簡単には扱っちゃいけないぞ、と釘を刺しておりまして。結局まあこれがものを言ったのか、さっき言った内地転籍を認めようという法案は実現しませんでした。つまり戸籍問題は、皇民化における急所であったと言えると思います。

 

しかも日本は太平洋戦争では、アメリカ・イギリスが自由民主主義、反ファシズムなんていう旗を掲げていたのに対して、日本では対抗イデオロギーとして、アジア諸民族を欧米から解放して平等の立場でみんなが包摂される「大東亜共栄圏」、一つの家族という「八紘一宇」なんていうことを掲げますけども、これも結局戸籍の差別を見たら、いかに欺瞞かというのがわかると思うんですね。結局同化主義を徹底するんだったらば、帝国臣民として戸籍を全部一緒にする、一元化するべきであるけども、これはさっきの内務省の文書にあります様に、民族の純血ということを守る。つまり日本人の血統的な優位性を安定させるには、戸籍を一緒にしてしまうことは民族の境界が無くなってしまってこれは阻害要因になるという、こういうジレンマがあったわけです。結局、同化主義と差別主義を巧みに使い分けるという、そういうのが日本の植民地支配の特色だったんではないかなと思います。

 

本当はこれで話を終わりにしてもいいと思うんですけども、実は戦後にはどうなったかというところですが、だいぶ長く話して皆さんもお疲れになっていると思いますけども、戦後はさっき言ったキムミョンガンさんの訴訟でも、この辺のところがポイントになるんですけども、なんで旧植民地出身者らの国籍が奪われたか、日本の国籍が奪われたかという経緯です。まずポツダム宣言を受諾して日本が降伏すると、一応事実上はここでも朝鮮・台湾・樺太は、もう日本から離れてしまうわけです。実際に朝鮮はこの3年後には大韓民国と北朝鮮-朝鮮民主主義人民共和国に分かれたりするわけですけども。

 

その後一方、日本国内の戸籍制度はそもそも憲法改正で無くならなかったの?だってあれは家制度じゃないの?なんでこれは残ったのか?というと、この辺は佐藤文明さんなんかも書いてますけども、かなりやはり日本の政府というか司法省の役人が体を張って戸籍を守ろうとしたんですね。当然総司令部もこの辺は目は節穴じゃないですから、憲法第24条で両性の本質的平等と個人の尊厳というのが書かれた、これによって家制度というのは廃止されたんだから、当然家を支えていた戸籍も変えるべきでしょと。しかも日本の戸籍は家単位でやってたんだから、これを個人単位でやってしまえばいいでしょていう、アメリカの考え方は個人単位の方が何かといいでしょっていうことで要求したんですが、司法省は戸籍はあくまで家族の登録であると抵抗しまして。ここにはいろんな裏話があるんですけども。なんか総司令部が「戸籍の名前が良くない。戸籍の戸って、家っていう意味だろう?」と。そしたらこの時、司法省の役人が「いや、戸籍の戸ってドアの意味だから」、それでごまかしたらしいと、笑っていいものかわかんないですけど、そんなんで言いくるめられちゃったのかなという気もするんですけども。やはりかなり日本側で抵抗して、まあただ法律そのものは改正されてさっきも言った様に、三代まとめて一つの戸籍入るとか、そういう大家族の戸籍じゃなくて、夫婦と未婚の子どもという、かなり小規模の家族の単位の戸籍に変わった、まあそういうところですね、変わったのは。

 

あとは、朝鮮戸籍・台湾戸籍はどうなったのかと言いますと、これも妙な話なんですけども、さっきも言った様に、日本の植民地はポツダム宣言で事実上もう解放された筈なんですけども、日本の解釈はこうだったんですね。日本の領土変更が正式に決まるのは、連合国と講和条約を結んだ時であると、その時まで日本の領土として朝鮮や台湾や樺太は未だ形式上は存在するんだという。だから、さっき言った外地というのも、まだ講和条約締結までは概念としては存在するという。それによって、外地を前提とした法令も、講和条約までは効力を持つものという見解に立っていました。てなわけで、さっき言った朝鮮戸籍や台湾戸籍とか共通法という朝鮮の家を出て日本の家に入ったら日本人とか、そういうことを決めていた法律も引き続き有効とされておりました。なので、朝鮮人や台湾人、内地人の間でポツダム宣言以降も、例えばその間で婚姻なり認知なり養子縁組なりあるいは離婚なんかがあった場合には、内地、朝鮮、台湾においてそれぞれ戸籍が変動するという、こういう取り扱いも従前通りとされておりました。これは1948年10月に民事局長の通達でも言っております。

 

つまり、植民地はなくなったけども、植民地の戸籍はまだ残っていたという。その戸籍によって戦後のこの時期に内地人から朝鮮人になったりとか、朝鮮人から内地人になったりとか、いわば戸籍の変動による民族の変動みたいな、そういう扱いはまだ行われていたわけです。

mixiチェック

あと国籍についてはどうだったかと言うと、日本政府は、まだ日本に住んでいる朝鮮人・台湾人は日本国籍を保持するという見解で一致しておりました。例えば1945年12月1日の第89回帝国議会の衆議院で、この国会はどういう何の国会かというと、さっき言った衆議院議員選挙法改正案が出されたとこなんですね。つまりこの時何が決まったかというと、男女参政権、20歳以上の男女全てに参政権を与えるという、非常に日本の民主化の象徴とされる法律が出来たこの国会、その裏側では、戦争末期に認められた朝鮮人・台湾人の参政権がここで停止されます、その国会なんですね。参政権を停止するときにその説明として、堀切善次郎内務大臣が答弁していたのは、朝鮮人及び台湾人は「講和条約ノ締結マデハ尚ホ帝国ノ国籍ヲ保有シテ居ル者ト考ヘラレマス」とはっきり言っております。ちなみにこの時、朝鮮人・台湾人の参政権を停止した時も、この衆議院議員選挙法改正法の附則という法律の一番最後に書いてあるところで、やはり戸籍法の適用を受けない者は参政権を停止する、そういう書き方をして、日本の官僚は爽やかなくらい徹底してますね、そういうところは。あと総司令部も、在日朝鮮人は本国に帰還しない者は日本国籍を保持する者とみなすという声明を1946年11月に発表しております。

 

参政権は今言った様に停止されました。正確には外地における参政権なんですが。この時の朝鮮人は、数で言えば敗戦の時には日本には200万人いたと言われるんですが、その後かなり祖国に引き揚げた人達がいたんですね。それでも1946年後半には55万人以上の朝鮮人が日本で残留しておりました。まあもちろん当時日本に生活基盤も持っていたし、あと朝鮮でコレラが流行っていたりとか、あとは確か朝鮮人の引き揚げに日本政府が持ち帰り金の制限とかをやったりして、結構何かにつけて制限をかけていたんですね。それでやっぱり思うように帰れなかった人が多かったんですね。それだけ朝鮮人が多く残っていたんで、日本では彼等は戸籍には適用されないわけだから、どうやって管理しようかっていうときに、外国人登録令というのが1947年5月2日、つまり日本国憲法施行の前日なので、この時には天皇がまだ勅令を出すことが出来た、これが史上最後の勅令第207号。その第11条で、これはもう御存知でしょうかね皆さん、「台湾人のうち内務大臣の定めるもの及び朝鮮人は、この勅令の適用においては当分の間、これを外国人とみなす」という両義的扱い、さっき言った国籍はまだ日本国籍のままなんだけども、「当分の間」という、これもいつまでなのかわかりませんが、まあどうも日本の政治家や官僚は「近いうちに」とか「当分の間」とかそういうのが好きみたいです。十年なのか二十年なのかも知れません。とりあえず外国人としてみなすという、「みなす」ということも好きみたいですね。

 

ちなみに台湾人はどうであったのかというと、ちょっと複雑なんですけども、当時蒋介石の中華民国政府が台湾人も中華民国国籍を回復出来ますよという法律を作ったんですね。中華民国国籍を取った者は、この時代で言うと連合国民の地位になるので、朝鮮人とは別に扱われたんですね。なので「内務大臣が定めるもの」というのは、台湾人でも内務大臣がこいつは外国人登録しちゃっていいよとそう扱った者はここでは登録しちゃっていいよという意味なんですね。

 

それで、ここで外国人登録の対象となる「朝鮮人」というのは、つまり「朝鮮戸籍令の適用を受けるべき者」を指すという内務省の通達が出ております。だからもう言うまでもなく、生まれながらの日本人でも朝鮮の戸籍に入っちゃっていた人は、ここで外国人登録の対象になったんですね。この様にして、国籍は日本だけども外国人登録の対象となって参政権も与えられないという、これは当時朝鮮人がやはりかなり勢いがあったということもあるんでしょうし、朝鮮人学校なんかを結構関西の方なんかで作ってましたけども、日本はたとえば民族教育を否定する時には、「おまえ等は日本国籍なんだから、日本の文化慣習に則った教育をやれ」と、そういう時には日本国籍を振りかざすんですね。外国人登録の時は「おまえ等国籍は一応日本だけど、事実上は外国人みたいなもんでしょ」と扱うわけですね。

 

これがはっきり片が付くのは、サンフランシスコ平和条約の時でありまして、1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約に調印しまして、翌年の4月28日に発効致します。平和条約は、朝鮮の独立を承認するとか、朝鮮及び台湾に関する「すべての権利、権原及び請求権を放棄する。」とか、第2条にこういうことが書いてありました。しかし、日本から分離する領土に帰属する人々、朝鮮人や台湾人の国籍に関する規定はありませんでした。これにもいろいろがあったと思うんですけども、実際このサンフランシスコ平和会議には、植民地の当事国である韓国それから北の朝鮮民主主義人民共和国もそれから中国も参加してませんので、まあそういう当事国不在の会議であったということも問題だと思うんですが。それで条約そのものには書いてないんだけど、じゃあ日本に住んでいる朝鮮人や台湾人をこの後どう扱うのかというと、その条約発効の9日前に、4月19日ですね、「平和条約発効に伴う朝鮮人、台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」という長い題名の法務府-現在の法務省ですね-の民事局長の通達が出されます。これは一部を引用しましたが、関係あるところだけですけども。御存知かと思いますけども、「通達」というのは結局、別に法律ではありませんので、あくまでも法務府民事局長が地方の法務局、法務局長達に、この様に扱うべしという、まあ行政指導ですよね。だから別にこれは、法的な効力は本来持つものではないんですが、まあここでどう書いてあったかというと、一つめが「これに伴い、朝鮮人及び台湾人は、内地に居住している者も含めてすべて日本の国籍を喪失する」と。二つめが「もと朝鮮人または台湾人であった者でも、条約の発効前に内地人との婚姻、縁組等の身分行為により-これが戦後も続いていたわけですね-内地の戸籍に入籍すべき事由の生じたものは、内地人であって、条約発効後も何らの手続を要することなく、引き続き日本の国籍を保有する」と。三番目は逆で、もと内地人であった者でも、条約の発効前に朝鮮人または台湾人との婚姻なり養子縁組して内地の戸籍から除かれちゃった人は、朝鮮人又は台湾人と扱われますよと、だから日本の国籍を失いますよということ。要するに、この平和条約発効時点で朝鮮戸籍又は台湾戸籍に入っていた者は、朝鮮人又は台湾人で、一方、内地戸籍に入っていた者は日本人であると。実はこれ、戦前と同じことをまたここで繰り返していて、ただここで戦前と違うのは、前者つまり朝鮮戸籍や台湾戸籍に入っている人は日本国籍を失いますよという扱いだったわけです。つまり国籍というのは本来、日本国憲法第10条でも「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」と書いてあって、国籍法という法律が現にあるにも関わらず、ここでは全く戸籍によって国籍を決めてしまったんでしょ、一方的に。こういう通達だったんですけども、これに基づいて各地の戸籍事務の担当者は扱うようになりまして、これが日本政府の正式見解ともなりました。1961年の最高裁判決も、この平和条約によって国籍を一斉に失ったという処理は合理的な判断であったという見解が出されております。これが今の憲法の判例にもなっております。

 

後のことは御存知の様に、平和条約の発行日には外国人登録法が公布施行されました。あと国籍法は御存知の様に1950年に改正されたんですけども、父系血統主義は変わらずに、これが1985年までずーっと続くんですね。であるからつまり、日本に生まれ育って2世3世と日本に生活の根を下ろしていても、朝鮮人は外国人のまんまであり、入管法の定める退去強制の対象にもなりますし、外国人登録法は指紋登録が導入されまして、実施は1955年からだったんですけども。まあそういう数々の人権侵害の対象となります。更には、住民登録も対象外とされました。その代わりに外国人登録があるんだよということだったんですね。これが今年(2012年)の7月に住民基本台帳法にようやく外国人も対象となって、住民票が作られることになりました。まあただ、戸籍に外国人が載らないというのは変わってないんですけども。

 

だから結局、戦後いろいろと指紋押捺反対闘争であるとか、戦後補償問題それから就職差別問題であるとか、あと今の外国人学校の朝鮮学校には高校無償化の対象外とするとか、そういう扱いがありますけども、ああいう問題にしても、それを「差別でしょ!」と攻撃すると、返ってくる答えが、「だってこの人達は外国人なんだから、国民主権である以上は日本国民と一緒じゃないのは当然でしょ」という、当然の権利としては認められずに、差別が当然となってしまうという、そういうことなんですね。

 

これらの問題は結局、平和条約発効の時に、この日本政府の判断が、まあ一方的に駄目だ駄目だと言うのか、私も少し悩んでいるところもありまして、やはりこの事実上朝鮮・台湾が日本の領土から離れているけども未だ領土変更ははっきり決まっていない、そういう時に国内に住んでいる朝鮮人・台湾人をどう扱うかと非常に悩んだと思うんですけども、ただこの時に国籍選択の権利を与えて良かったんじゃないかなというのは言えると思うんですね。どう考えても、さっきの民事局長通達は一方的に戸籍によって分けてしまうわけだから、そこに国籍選択の自由を認めなかったのは何故なんだろうと。過去の植民地の、先ほど始めの方で申しました様に、台湾や樺太では住民の国籍選択を認めていたのに、なんでそれがここでは受け継がれなかったのかと。日本の官僚はよく、先例、前例を踏襲するのが好きですけども、ここでは前例を踏襲しないで、こういう処理にしてしまったのは、非常に首を傾げざるを得ない。こういう問題、外国人問題というのも、国籍選択の自由があったら、どれだけ違ったものになったかと言えると思います。だから日本の戦後処理は、全く歴史的反省に立った人道的配慮を欠いていたものではないかと言えると思います。

 

まとめは、まあ大体わかると思うんですけども、結局、大日本帝国では植民地の人たちは対外的には日本国籍として画一的に管理する、国籍はもうあくまでも管理する道具だったと。対内的には戸籍によって、生まれながらの日本人と差別する。そこで国内でも国籍でまた差別する。その何々人というのは血統ではなくて、本籍がどこにあるかという、つまり家への帰属によって決まるという。その戸籍に基づく差別が戦後にも受け継がれて、平和条約の時の外国人管理に利用されたという。一体国籍とは何なんでしょうと。国籍が外国人の国民の境界を決めるとは一般に言いますけども、こういう事実をどう考えるのか。戸籍という植民地時代のくびきに、朝鮮人台湾人は戦後も今日まで縛られているということであると思います。

 

あと外国人の帰化は、今増えていると言いますけども、2011年度は5662人の韓国・朝鮮人が帰化している様です。ただ、これは殆ど余談に近いんですけども、やっぱり外国人参政権問題の話もさっきしましたけども、参政権をくれって言うと、帰化しろって即座に返ってきますけども。でも国籍を取って、形の上で日本人になっても本当に差別がなくなるのかなっていうと、日本ではまだそれは怪しいなと私は思うわけですね。例えば自ら「暴走老人」と認めてますけども、石原慎太郎氏はですね、あの人はもう常々言っている様に、例えば参政権の問題についても、今の民主党の首脳には帰化した人間が多いから、祖先に義理立てしてこういうことをやっているんだろうとか、平気で言いますね。つまり、国籍は今日本でも、お前の祖先は向こうの人じゃないかとか言うわけですね。じゃ国籍変えても、結局そこにこだわるのかという、国籍よりも血への信仰が根強い。でも血っていうのは、今見て来た様に戸籍によってかなりフィクションで決まっていたものであって、国籍も血も結局どっちも全く絶対的なもんではないというのがわかるかと思うんですね。だから結局日本人なるものを決定して来たのは、血に非ず、国家権力であったという、まあそう考えざるを得ないんですけどね。こういうことを私は政治の問題であったんじゃないかなと考えるわけであります。

ということで、以上長々と、端折った分もかなりあって取り留めがないところもありましたけども、以上、御清聴、有り難うございました。

(拍手)

mixiチェック

<質疑応答 その1>

 

A)それじゃあの、休憩終わって質疑応答とか、いろいろと聞きたいことがあったら、遠藤さんの方に聞いていただきたいと思います。それで、今日の話ね、やっぱし普段もうなかなかね、こういうその植民地支配のときに日本の戸籍っていうのはどの様に使われたかとかね、そういうことはあんまり今までね考えずに来たっていうか、学習する機会もなかったので、まあ皆さん初めて聞かれた方も多いと思いますけども。まあ詳しくもっとお話しいただければ、もっといろんな問題点がどんどん出て来るところなんですね。やっぱし今日も話を聞いて、いややっぱ戸籍っていうのは相当差別の強い法制度だし、それがまあ支配の道具として使われたと。まあしかし、日本人は割と戸籍が日本はしっかりしているからとかね、この人は戸籍がしっかりしているから結婚しようとか、何か有り難い様なそういう感覚に囚われているけど、実はとんでもない裏側の闇に沈んでいる部分ていうのが、もの凄い恐ろしいものがあると思うんです。同様にやっぱり天皇制もね、天皇もなんかね、今一生懸命皇室云々かんぬんてやってますけど、天皇制があるために、我々の生活がどのぐらい制約されているか、この二つがね、日本人のやはり騙されているとこって言いますかね、二つともいいんだいいんだと言いながら、実は自分の権利とか生活を権力によって喰われていると、まあこういったことがね、やはり今日のお話からも随分わかってきたんじゃないかと思います。それでは、まず質問から行きますか。何か今日聞いてわかんなかったとか、どうしてなのとかいう疑問がありましたら、どうぞ。

 

B)国籍法が父系だったじゃないですか、ずっと。父系だった時代に母の戸籍に入る-今でも婚外子は母の戸籍に入っているんですけれども-母の戸籍に入っている子どもって、法律的には父がいない、父が不明です。その子どもが日本国籍者であるということについて、何か旧国籍法っていうのは規定があったんですか?

 

遠藤)明治に作られた国籍法で、条文では確か父と母が不明な者は、子どもは日本国籍とする、いわゆる「捨て子」とかは日本国籍とするんだけど・・・。

 

B)父がわからない場合は、母が日本人なら日本人ということになってたんですか?それとも、もう戸籍法がそうなっているから日本の国籍、戸籍法が適用だから国籍は日本人だという、完全に戸籍法の方がずっと上で、国籍法というのはなんかお飾りみたいな・・・。

 

遠藤)どうでしたかね・・・。すみません、思い出してみます。時間を下さい。

 

C)いくつかあるんですが、別の話をしてしまってもいいですか?旧植民地というか植民地において国籍、戸籍の話、非常に流れはよくわかったんですけれども。どういう範疇で括るかとか、どこまで括ってどこまで追放するかとか、そういう変遷はよくわかったんですけれども、戸籍制度が持っている差別性とか、家として人民を管理する、そういうことが例えば東アジアの儒教的な価値観の元々強い朝鮮や中国や台湾-昔「族譜」とかそういう映画を見たのを思い出しながら話しを聞いていたんですけれども-創氏改名とか、日本の国家が戸籍を持ち込むことによって、元々持ってた家制度とか価値観とか、そういうものに対して、日本帝国主義が植民地支配の中で戸籍制度を持ち込むことによって更に強要したものというか、民衆を支配していくために戸籍を機能させた面、新たに意識を植え付けたとか、新たな支配の、統治の方法を持ち込んだとか、そういう様な面で何かありますか?展開された事柄というのは・・・制度を押し付けたということ以外に、どういう風に機能させて民衆を支配させたかというのは、創氏改名だとか宮城遙拝だとかいろんなこと、帝国主義の植民地支配の中では、いろんなことは聞いているんですけれども、戸籍制度を通じて何か獲得しようとしたとか、機能させた強要させたということはあるんですかね?

 

遠藤)中国や朝鮮なんかの、家族制度っていうのは私もあまり詳しく調べてはいないんですけども。だぶんその、中国や朝鮮でも一つの家族を1枚の戸籍に登録して管理するっていうところでは同じだと思うんですけども、日本の明治民法の様に戸主のものすごく強い権限を持った家という仕組みが、やっぱり日本の戸籍の本質だったと思うんですよね。それが朝鮮や台湾なんかに導入されたんですけども、ただそこがまたね、押し付けたと言っても、今までの話でも、ある程度はやっぱり朝鮮や台湾の慣習を尊重して、即座に日本の戸籍制度をそっくりそのまま持ち込むっていうことは出来なかったんですね。私はそれが逆に、全体として見れば日本と同じ様に戸籍という制度を仕組んだけども、細かいとこを見ると日本の戸籍ではない台湾の戸籍、朝鮮の戸籍っていうやっぱり地域別の特殊なものっていう扱いにして、だから差別することも合理性があるっていう、そういう方向に持っていったと解釈しているんですね。だから日本の植民地支配って、やっぱりそういう、さっき差別と同化の使い分けっていうことを言いましたけども、徴兵とか動員するときは同化で括ってしまうんだけども、なにか朝鮮人だけにこれをやらせるとか、台湾人だけにこれをやらせるとか、明らかに差別するときには、はっきり朝鮮人だから差別すると、台湾人だから差別するって言い方をせずに、朝鮮や台湾の旧慣(古い慣習)を尊重する、だからこういう制度でやっていいんだよ、合理性があるんだよと、そういうやり方をしたんですよね。だから、ちょっと直接のお答えになってないかも知れないですけど、戸籍もやっぱり日本と朝鮮や台湾で強いたものにはかなり差があって、だけどこれは朝鮮や中国の古代史とかそういう思想に詳しい人に聞けばわかるかも知れないですけど、日本のような家制度が朝鮮や台湾に存在したかっていうと、やっぱり違うものだったと思うんですね。やっぱり台湾なんかも、家族をめぐる慣習なんかだいぶ違うからこそ、戸籍もすぐに同じものが出来なかったわけですし、だからねえ、戸籍によって植民地に持ち込んだものっていうのは、やっぱり自分が思うのは、日本の家制度、戸主を中心として、家族の婚姻なり縁組みで、全部戸主から同意を得ないと駄目だとか、あと戸主と皆氏を同じにする、そういうところじゃないかと思うんですね。氏の問題なんかは多分だいぶ違うと思うんですよね。中国なんかは結婚しても姓は別だとか、朝鮮も同姓は結婚できないとか、そういうのがありますから。だから氏の問題を考えると、結構日本が押し付けたものっていうのは、家と氏というのがセットになってそれが戸籍を支えていたのかなと。それくらいは言えると思うんですね。

 

C)すごい基本的なことがわかっていないんですけど、婚姻によって氏を一つにすることを強要するっていうのは、日本の国内じゃなくていわゆる外地で、それを戸籍を作らせることによってやったところがあるんですか?

 

遠藤)はっきり創氏改名みたいに日本式の氏にしろっていうのとは別に、朝鮮戸籍とか、私も条文を見たんですけど、確か朝鮮でも、戸主っていうものを決めても、戸主と姓を同じくするとこまでは行かなかったかな・・・ちょっとそこは、考える時間を下さい。

 

C)(他に)内地外地、(レジュメの)図を見ながらちょっと思ってたんですけども、樺太アイヌといわれる人たちの話が随分細かく言及されてたんですけれども、途中から同化が進んだから日本人の範疇に入ったよということで、内地人扱いよということなんですね?ここは一応。樺太というかなり遠いところだけど内地人扱いよと。それ以外のウィルタとかいう人達は別扱い、「樺太土人」-差別語だと思いますけど-という扱いでずっと終戦まで、敗戦までそういう扱いで来たわけですか?(遠藤氏「はい。」)

そういう意味では内地戸籍の・・・中にいるんでしょうけれども、樺太以外のアイヌ民族に対する「旧土人」という様な書き込みがあったわけですよね、戸籍の中で。これはただ内地外地の区別をするときに民族の問題で区分されている様に見えるわけですけれども。最初に、北海道と沖縄の問題はちょっと置いておいてみたいな話から始められたと思うんですけれども、アイヌ民族に対する戸籍上の措置、「旧土人保護法」とかまた別の問題、差別の問題とかあるわけですけれども、戸籍上の扱いの中で樺太アイヌ以外のアイヌ民族一般に対する戸籍統治政策上何か特筆すべきことっていうのは他にあるんですか?

 

遠藤)アイヌはもう、戸籍法の適用を受けるようになってから、内地人と同じ扱いだった筈ですね。今思い出したんですけど、多分その戸籍の文化として押し付けたものとしては、例えばおそらく朝鮮とか中国で「続柄」っていう思想は異なると思うんですよね、「長男」「次男」とか。詳しい方います?私が知っている限りでは、確か朝鮮とかには元々そういう戸主との続柄で家族に順序を付けるというのは、確か朝鮮に日本が戸籍を持ち込んだときに始まったということなんですね。

 

D)それは「実子」とか「養子」とかは書くけど、「長男」とか「次男」というその長幼みたいなというのは無いという?(遠藤氏「ええ。」)何も無いってことはないですよね?

 

遠藤)「男」とか「女」とか性別・・・。

 

D)でも「男」「女」っていうのは、子どもとして入って来たのか?配偶者として入って来たのか?わかるようにはなりますよね、いくら何でも。あるいは戸主は別にいて、誰の配偶者として入って来たのか、何らかの関係を書かないで、ただ人が増えていくっていうことは・・・。

 

遠藤)ああ、だから「子」ですね。「子」っていうのはあると思うんですけど。多分「実子」とか。「私生児(子)」とか「庶子」とかいう区別はなかった筈なんですよね。ない筈なんですよ、(D「何もないんですか?」)ええ。そういう婚外子を差別する、もちろん婚外子差別はヨーロッパなんかでもあったんですけども、日本の場合は「庶子」とか「私生児(子)」ってはっきり書きましたよね、戸籍に。そういうことは元々朝鮮とかには無かったんですよ。それはどうやらやっぱり日本の戸籍が持ち込まれた時に根付かされたらしいです。

 

E)ヨーロッパなどは戸籍がないから、「庶子」とか「私生児(子)」とか、そういう区別は書きようがないんじゃないですか?

 

D)法律用語じゃないの・・・。

 

E)法律用語であるの?

 

遠藤)いやあのー、結局個人毎に出生簿とか婚姻簿とか。その出生簿とかにはやっぱり「婚外子」とか書くんですよね。確か英語で言うと「Natural Child」とかいうらしいですね、Fさん御存知ですかね?イギリスでは「Natural Child」とかいうなんか・・・。

 

F)あの、「私生児(子)」を・・・。

 

遠藤)私読んだところでそう書いてあって・・・ああ嫡出子はそうですね、legitimacyですね。それ以外は「Natural Child」っていう。

 

F)イギリスではbastard

 

遠藤)「悪魔の子」とか、そんな意味ですね。

 

F)とてもひどい意味ですね、差別です。

 

遠藤)それは法律用語じゃないと思うんですけど、一般にそう呼ばれたっていうことを聞いたことはあります。

 

B)「姦生子」っていう言い方がヨーロッパでは前は言われていたといいますが・・・。

mixiチェック

<質疑応答 その2>



E)突飛な発言なんですけど、天皇は戸籍を作った側で、戸籍には登録されていないですが、仮に現在の戸籍法を適用したとしたら、大正天皇は非嫡出子なわけですよね。だから非嫡出子を差別するようだったら、大正天皇のことはどう考えるわけ? というふうに反論すれば、みんなあんまり差別的なことは言えなくなるんじゃないかと、個人的には思うんですけれども。
 

遠藤)そうですね、だからあの明治の初めに条約改正とかで日本の法律を欧米の法制度に対応したものに変えていこうっていう時に妾(ママ:以下同じ 講師からの事後コメントはこちら)をどうするかっていうのが結構議論になって、キリスト教では一夫一婦制が当たり前だから、って一夫多妻制でしょっていうことなんで。その時に日本の最初の刑法の、明治3年に出来た新律綱領っていうものがあるんですけども、それにはも確か妻と並ぶ二親等っていうのかな、当時、要するに親族に含められていたんですね。



E)それはその当時、有力者には一夫多妻が珍しくなかったので、権力者側は今ほど厳密に決めなかったというか……。



遠藤)逆に言うと、はだからもう当然視されていた。



E)そうですよね。



G)あとを生むためには、いた方がいいからという・・・。



I)側室みたいな感じですよね。



E)誰それの腹から生まれてきたっていうので、昔は婚姻しても別姓のままだったんですものね。日野富子とか北条政子とか、夫と姓が違う人物が歴史の教科書に出てきますが、今の私たちでも変だと思わないでいる……。



遠藤)それでさっきのの存続論の時にも、さっき言った刑法-明治8年かな-今度新しく刑法を作りましょうねっていう時に元老院っていうところで審議するんですね。それでってどうしますかっていうことが大議論になって、要するにを法律上の文言としてを残すかどうかっていう時に、を法律上も残しましょうっていう賛成派の意見の中では、天皇が万世一系代々続いて来たのは、妾がいたからこそ天皇を残す正統があったんだっていう・・・



E)だけど、それだって万世一系じゃないわけじゃありませんか?



遠藤)まあ実際そうですけどもね。だから彼等もフィクションて認めながらも、の必要性を訴えたと、天皇制に結び付けて。じゃないとね、連綿とした皇統とか何とか言ったって結局、がいなかったら続かなかったわけですし。



E)それでも、継体天皇なんていうのは、ようやく探し出して天皇にしたけれど、系統が違うから、継体という、体制を継ぐという名前にしたという説もあるくらいで、南北朝時代もあったし、万世一系とはちょっと違うんじゃありませんか。だから、今、常識だと思われていることは、たいした常識じゃないのでは? と私よく思うんです。たかだか明治以降の歴史がずーっと昔から続いているように思っているのは、すごくおかしいと私は思うんですね。



遠藤)明治が始まってから全部夫婦同姓になったっていう風に思っていらっしゃる方が多いみたいですけども、明治の始めは、妻は旧姓を名乗る、旧姓のままでいろっていう、そういう時期があったんですね。



E)だから戦前は今でいう非嫡出子は多くて、今ほど差別されなかったんじゃないですか。



遠藤)まあ江戸時代とかはねえ、今みたいに・・・。



A)ていうか、やっぱしあのひと昔前はね、要するにだからまあ長男は優遇されて、もう次男以下は全然だから扱い方が違うっていうか、極端に言えばおかずまで違うとかさ、そういうのがやっぱり文化の中にあったわけだよね。なんでそこまでしなくちゃいけないのかという問題が・・・。



E)たしか佐藤文明さんの追悼文集の中に、一番若い娘に家を継がせたっていう人の例が出ていたと思います。



I)末子継承・・・。



E)そうそう。長子だけが家を継いだとも言えないんじゃないですか、戦前の日本でも。



A)だから一般的な流れとしては、そういうのがあって。というのはまあ一番の問題は農業の問題で、戸籍の問題をやっていたときも、いろいろ相続の問題とかなったときに、農家のとこの相続分を平等に分けて、確かに理念的には平等に分けないといけないんだけど、小さな畑を4つに分けてしまったらもう農業が成り立たないということで、まあ今でも言われているみたいだけど、いわゆる長男て言われる子どもが借金をしてまでも、親が死んだ時にその畑の大きさを守るために、借金をして他の兄弟にその分だけ現金を渡して、借金抱えて親から土地を、農地を継承するっていう様なことが現実的に起きてたりするので、本来だと、もうちょっとその辺は突っ込んで研究していかないといけないとこなんですね。だから都市文化の中では、はっきり言ってどうでもいいような問題で、だから都市が発達するにつれて、だんだんそういうとこが稀薄になってるんだけども。そうなると今度、権力維持っていう問題がおかしくなって来るから、まあいろんな仕掛けがされて来たっていうね、一方でそういう歴史もあるんじゃないかと。それから民法的に言っても、さっき遠藤さんの最後のとこにね、血に非ず国家権力であったと、まさに民法なんかでも、今いわゆる待婚期間内に生まれちゃった子どもを前夫の子とするなんていうのは、血統主義からも大外れなんですよ。で民法やると、擬制っていうんだよね。いわゆる血を擬制っていう形にして正当化していくと。そこにはもう血統主義も何もないのよ。要するに、いわゆるまあ今、家っていうあれでもないけれど、やっぱそういう名残で、どうやって家族の系統を正当化していくみたいなとこに特化されてっちゃうので、実は血統だとか血が、世間で言う血がきれいだとか言うのっていうのは、現実的にはすごく成り立たないことでね、ちょっとそこんとこ勉強してみれば、すぐ法制度的にもわかる話で、それをだから未だにね待婚期間の問題をあれして、取っ払わないで、それで前夫の子どもだなんて風にしてる権力の神経っていうか、また世間もそれを許しているっていうのは、まあ何だろうなって風には、僕なんか思っているんだよね。

遠藤さん、僕の方から質問いいですかね。この本(「近代日本の植民地統治における国籍と戸籍」)ね、一生懸命読ましてもらったんだけども、すごくね面白いなと思ったのは、さっき言った台湾と朝鮮半島とそれから満州の話なんですけども、日本がまあ日本の領土っていうかね、占有地という風にしたんだけど、全部ね遠藤さんの本に書かれているけど、形態が違う。つまり台湾は清国と戦争してぶん取ったけど、これは戦争の処理の後で条約なりを協定を結んで、台湾を日本の国にしたということですよね。そいで朝鮮半島は軍隊を送ってそのままぶん取っちゃったと。で、満州は傀儡政権を打ち立てたっていうことなんですよ。どちらも権力構造的に言うと日本の支配ということになったんだけど、その時に遠藤さんの本によると、戸籍制度をそれぞれ施行しようとしたときに、やっぱり国際関係のところから圧力かかる、さっき言った条約の面とか。つまり清国と協定で領土を取ったわけだから、当然そこんところに、取られちゃった清国の方からも言い分があって、そこに住んでいる人達っていうのは必ずしも日本の勝手な風には行かないよと、そこはやっぱり国際条約のレベルの話だよっていうことで、戸籍制度をやっぱりやろうと思っても、国際条約から逸脱した形でやっちゃうことは出来ないと。で、満州国は傀儡政権だから、直接政府の支配に及ばないから、一応傀儡政権といえども、そこの政府の権力をある程度尊重しなくちゃならないと。それで朝鮮半島はさっき言った様に全部取っちゃったわけだからと。そこんところで、それぞれのね、やっぱり戸籍制度をやろうといったときに、国際的にね、やっぱり日本の戸籍制度ちょっとおかしいんじゃないの、国籍との関係で見たらと。そういう話が書いてあって、すごく面白いなと。だから帝国主義時代の中でも、ヨーロッパを中心にフランス人権宣言以来ずーっと人権概念が打ち立てられたとこと、日本の支配的な欲望との軋轢っていうかね、そこんとこがすごく面白かったんだけども、その辺のとこは、ちょっともしね、もうちょっと説明するとこがあったら・・・。



遠藤)満州国はやっぱりあの、傀儡国家と言いえばそれはそうなんですけども、建前の上では日本が建てたっというよりは、満州に存在している漢族やモンゴル人や満州族達が自発的に中華民国から独立して打ち建てた独立国家であるっていう、そういう建前なんですね。で日本も、満州国建国が1932年の3月1日ですけども、すぐに日満議定書っていうものを結んで、日本政府が満州国を承認するっていう形でひとつの独立国って作るんですね。なので、建前は中華民国から分離独立したってことだから、法制度も初期の頃はなるべく-実は法律を作るのは日本人の役人達が満州国に入っているわけですから作るのは日本人なんですけども-建前はそういうことだから、中華民国の法制度をある程度こう踏襲してやんなきゃいけないっていうときに、苦労したのが民法とか、そういう家族の慣習に関することっていうのは、難しかったみたいなんですね。だから戸籍法についても、満州国独自の戸籍を作るのか、あるいは日本の戸籍をそのまま満州国に適用するのかっていうところで、すごく葛藤があって。でもやっぱり今言った建前では、中華民国、中国人の自発的な国家っていうことであれば、日本の法制度を即座に適用することも出来ないし、といって満州国独自の戸籍をといっても、あれだけの、さっき五族と言いましたけども、五族以外にも白系ロシア人とかユダヤ人なんかも居たし、イスラム系の民族も居たし、もうすごい複合民族国家だったんで、戸籍法なんか一番難しかった、一つの法律で国民の身分登録を作るっていうのは。だからそういうところが、日本のジレンマだったんですね。まあ一方で、満州国を近代的な国家として、こう西洋にアピールして承認を得るためには、西洋的な法制度も導入しないといけないっていう、そういうジレンマがあった、それは言えると思うんですね。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 



 

mixiチェック

<質疑応答 その3>

 

A)台湾の旧管理制度との関連は?

 

遠藤)まあでも台湾は、やっぱり正式に清国との間で獲得した領土で、日本の領土の一部にしたわけですからね。ただ、おっしゃっていることはあれですね、戸籍っていうものは日本の制度をそのまんま台湾に当てはめることは、やっぱり、一応植民地になっちゃえば全部日本の領土の一部なんで、まあそれは好き勝手にやる筈なんですよね。だけども、やっぱりあの、国際的にというよりは民族、多様な民族がいる、そういう慣習も様々に違うような民族に一つの制度を全部一律に適用することの難しさっていう、まあそこだと思うんですけどね。

 

A)難しさの、やっぱり一番の難しさの点が何か、特に特徴的なことっていうのは、例えば台湾の場合だとあったんですか?わりとだから、必ずしもすんなりこう台湾戸籍が出来たわけじゃないですよね?

 

遠藤)ええ。台湾が一番紆余曲折を経ているんですよね。朝鮮に関しては朝鮮戸籍で、法令、法律の場合も朝鮮戸籍っていう言葉を使っているんですけど、台湾の場合は最後まで台湾戸口調査簿っていうものだったんですね、このレジュメにも書きましたけども。戸口調査っていうのは、警察機関が家々を訪ねていって、ここに誰が住んでいるかとか、家族はとかを登録して作るものだから、やっぱり治安維持、治安取締り的な色合いが強いんですよね。だからやっぱり朝鮮と台湾を比べた場合には、台湾の方が、当時の日本から見ればまあ「民度が低い」と扱われていたこともあると思うんですよね。

 

A)そこをその、何ですかね、いわゆる戸籍という管理よりも戸口調査っていう風な形の管理の方が、日本の国としては有利だったということなの?

 

遠藤)そうですね、やっぱり。戸籍ってあの個人個人の届出によって役所が受理して、それで記録するものじゃないですか。だけど台湾の場合は、そういう届出っていうことはやっぱり個人の法意識というか、ちゃんと法に基づいて届け出る義務があるってことを理解させるのが難しかったんで、どうしても警察が実地に調査して、登録していくという、そういうやり方だったんですね。満州国でもそうだったんですね。さっきも民籍っていう話をしましたけども、満州国でも届出主義はやっぱりこれは強制するのは難しいだろうっていうことで、警察による調査で全部やるっていうことだったんですね。

 

D)定期的にやるんですか?1回やって終わりってわけにいきませんよね、人は変化するので。

 

遠藤)はいはい。期間については特に決まってはいなかったと思うんですけど、大体平均して5年毎くらいにはやってたみたいですね。

 

J)日本でもありますよね。警察はグリーンカード書いて下さいって来ますよね。あれも・・・。

 

G)あれって新しい、誰かが引っ越して来たっていう噂を聞きつけると来ませんか?何年かに一遍ていう感じじゃなくて。

 

A)それでね、やっぱり戸籍制度の問題と絡めて言うと、今出た届出制度ね、届出制度っていうのが、そもそも日本の社会の忠義心っていうのか、特徴的なものなのか?欧米なんかの、いわゆるそのかなり社会が発達した段階の中で、積極的に登録することによって例えば社会福祉を受けるとか、いろんなサービスを、行政サービスを受けるために必要だから届けるという様なね、そういう現象なのかね?国家に何でも届けるというのをさ、逆に言うと欧米諸国の方は人権意識が強いから、何でもやたらと国に報告するとか届けるっていうことではないと思うんだけど。どっちかと言うと日本は何でもかんでも届ける、さっき言った共通番号制なんかの方も、ああ便利になっていいやいいやと、そういう風になっちゃうじゃないですか。その辺の感覚っていうか、社会的なとこの特徴みたいなのが、何か欧米とかそれから今言った、台湾ではちょっとなかなか届け出る人がいないという様なことだったですけど、その違いっていうか、何か社会の意識の・・・ありますか?

 

遠藤)そうですね、やっぱり戸籍制度の最大の特質の一つが届出主義を採っているということで、まあBさんも御存知だと思いますけども。この届出っていうのは単に、出生とか死亡とかは事実として明らかだから、それは事後報告的に届け出ればいいわけだけど、婚姻とか養子縁組とかそういうものって、届出て受理されないと、いくら事実上夫婦でありまた親子であっても、法的に有効なものと認められないという、それが戸籍の大きな特質の一つだと思うんですよね。だから婚姻も届出婚っていう、これは世界的に見ても、私もいろいろ各国の婚姻制度とか調べたんですけども、ヨーロッパなんかでは昔は儀式を上げれば挙式をすればそれで成立したという、そういう「儀式婚」なんていう時代もあったし、あとはまあ登録する制度っていうのはあったんですけど、日本みたいに「届出ありき」っていうんじゃなくて、単にその婚姻証明とかそういう証明書に記載して、はいと届ければ、それで。あくまで予備的なものなんですね、欧米では届出っていうのは。だから日本でも届出が第一っていうのは、これはもう極めて特殊な例だと思うんですね。だから、さっきの日本の戸籍が植民地に導入されたときに押し付けられたものっていう御質問でしたけど、そこで付け加えるべきであったのは、その届出っていう制度を植民地の人間にも押しつけようとしたけども、うまくいかなかった。朝鮮なんかではうまく機能したみたいですけど、台湾とか満州ではどうしても届出主義なんていうのは法の、法意識としても慣習としても現地の人達にはなじみのないものだったから、どうしても強要できなかったということはありますね。

 

(中略)

 

遠藤)皆さんから個々に出て来た質問に、私こういうこと未だ知らないなっていうこと一杯あるんで、すごくこの、終わりの質疑応答は有益でありました。この後はまたあの飲み屋に場所を替えて、いろいろとお話しできれば幸いです。今日は有り難うございました。

(拍手)

mixiチェック

講演のなかで何度か出てくる「生まれながらの日本人」という表現についてですが、私はこれまで、この表現を「内地人」を説明する言葉として使ってきました。血統主義をフィクション主体の観念ととらえる私としては、軽々に「生まれながらの」という表現を用いるべきではなかったと考えます。ただ、「内地人」とは内地の戸籍法の適用を受ける者であり、壬申戸籍に記載された者を念頭に置いております。もちろん、それ以前から、人類学的・生物学的に「大和民族」(これとて純粋な存在ではないですが)とは異なる、南方に出自をもつ民族や、古代に大陸から渡来してきた中国または朝鮮の民族との混成があり、それらを一括りにして「生まれながらの日本人」と表現するのは乱暴とのそしりを受けるでしょう。

 しかし、ここでいう「生まれながらの日本人」とは、「日本国籍」である者 「日本」という地域の住民 という二つの意味を持ち合わせたものとして用いております。壬申戸籍施行時に日本に居住していた者がそのまま「日本国籍」として観念化されていたからこそ、壬申戸籍が「原日本人」の登録簿として成立しえたことについては異論はないものと考えます。


 私は、文化人類学者として「日本人」のルーツを究明するのがテーマではなく、政治学者として、戸籍という制度を通じて「日本人」なるものを造り出してきた政治権力の機会主義を究明するのがテーマです。琉球人やアイヌも壬申戸籍に編入されたことにより、対外的に(つまり領土画定に伴う国籍の帰属をはっきりさせるため)「日本人」という法的地位(国籍)に置かれたわけです。そして、壬申戸籍登録者がそれ以降の「戸籍法の適用を受ける者」すなわち「内地人」となるわけですから、したがって、「内地人」には琉球人・アイヌも含まれるもの(特に植民地戸籍に登録された者が「外地人」として区分されるので)と認識しています。


 したがって、「生まれながらの日本人」というのは人種や民族という意味ではなく、植民地住民との対比上、従来からの日本国籍・日本領土への帰属という意味での「日本人」を念頭に置いています。朝鮮戸籍や台湾戸籍から内地戸籍に入籍した技術的意味での「内地人」もあるの
で、議論は複雑になりますが、そもそもの「内地人」とは誰かという場合(つまり概念の出発点において)、上記の意味になると考えます。そして、「日本人」なるものが擬制であるからこそ、壬申戸籍を源流とする内地戸籍に登録された者が「生来の純血的な日本人」である、という教義が国家権力によって流布されていき、戸籍の「臣民簿」としての価値が拡大されていったというのが「日本人」とと戸籍をめぐる政治の実態なのではないでしょうか。


 また、講演において用いている「妾」や「土人」といった言葉については、もちろん差別語だと思っておりますが、当時の時代的な価値観を示すために、あえて「 」つきで用いております。他にも「鮮人」とか「非人」とかいった言葉も同様な意図から、私は著書や論文で用いています。


 歴史を描くということは
、現在の価値観と当時の価値観との対話だと思います。明治や戦時中といった当時の人権や民主主義に対する認識の限界を示すためにも、現在では使うべきではない言葉でも「引用」として使うべきだと考えます。

mixiチェック

↑このページのトップヘ